「差し違えの向こう」

「差し違えの向こう」日経11・29日刊文化 by柴田元幸氏

翻訳者である柴田氏は行司の差し違えと誤訳について書いていてその中で”それで時折思うのだが、英語の単語と言うのは日本語の単語に比べ「素材」としての性格が強いのではないか、というのを読んで思い出したことがある。数年前とある料理研究家に会ったことがある。その時、日頃思っている食物と思考の関係について質問をぶつけてみた。「食物というのは人間の思考に影響を与えますか。」「ええ」「そうだとすればベジタリアンと言われている人は一般的に言って思考が偏る傾向にあると言っても差し支えないですか」「もちろん人によりますがそういう傾向があると言えます。」と。その料理人にも、そういうことを尋ねる私にもベジタリアンの知人友人がいて。その中で偏っていると思われる人を例に出し盛り上がったのを覚えている。(私の偏見もあるかもしれません。私も野菜中心の生活ですが年をとってからは肉も魚もよく食べるようにしています)。

脱線しましたが、今度は食べ物ではなく、英語についてである。柴田氏は英語の単語は日本語と比較をしてより素材としての性格が強いと言っている。ということは、その言語を話す人々の思考、感じ方も素材に近いのではないか、言い換えれば思考は堅実で、感じ方はメインをしっかりとらえるが、細かい感性に訴えるようなことを受け取るのが苦手のように思えるのです。もちろんそれが良いかどうかではありません。

記事を読んだ時に感じたことを書いてみました。